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学校じゃ教えてくれない戦国ちょっと悪い話

1 人間七七四年 投稿日:2010/04/08(木) 19:10:28 ID:ytO+LOPj
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

前スレ
戦国ちょっと悪い話18
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1267753271/

姉妹スレ
戦国ちょっといい話19
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1269393777/

このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2161.html

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、無駄に荒れるもとになります。
そのような議論はこちらでお願いします
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/


参照:http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1270721428/l50



6 人間七七四年 投稿日:2010/04/09(金) 18:38:28 ID:rs11C9Mf
スレの最初なんで地元に伝わる地名関連の軽い話を一つ。

徳川家康が天下を取り江戸幕府を開いてから数年後のこと、
家康はある日、鷹狩をしたいと思い家臣を引き連れて東金へ行くことにした。
とはいっても当時としてはそれなりに長い道のりなので、途中のとある村で休もうと考え、
村内でも見晴らしがよく、休むのに絶好な子安神社という場所でのんびりしていた。
だが家康もただボーっとしているのもヒマなので、境内の高台から周囲を見降ろしてみると、
下では藤の花が咲き乱れ、まるで村全体に紫の幕がかかったようになっていた。
それに感動した家康は、子安神社の祭神が"富士"山の神である木花"咲"耶姫であることと
かけてその地を「藤咲村」と名付けたそうだ。

これだけだと普通に良い話なのだが、家康が死んで数年後のこと藤咲村では、
「藤”咲”村なんてサクヤビメ様と同じ字を使うのは畏れ多くないか?」
「将軍様がわざわざつけて下さったのはいいけど確かにちょっとなぁ」
「そういえば畑の実りが名前変わってからよくない気が…」
「藤の花も最近奇麗に咲かなくなってきたよね…まさか祟りじゃ!」
などという話をする者が現われ出し、サクヤビメの祟りという噂は村中に広まった。
村人の中では村名を改めようと、地元の旗本や幕府に直訴しようという者まで現われ出し、
この事態を重く見た旗本は、藤”咲”を藤”崎”に改めることで決着がつけることにし、
現在もその藤崎の名は町名として残っている。
天下を取った男の権威も人々の噂には勝てないという家康にとっては悪い話。




12 人間七七四年 投稿日:2010/04/09(金) 22:46:37 ID:atwj6awi
小少将の傾国


阿波守護細川家家臣、西条東城主、岡本清宗に一人の娘が生まれた。
この娘は輝くように美しく、成長するにつれ人々の評判となった。

天文(1532-55)のはじめの頃、岡本の主君、細川持隆の目にこの娘の姿が止まった。
持隆はたちまち心を奪われ、この娘を自分の側室とし、小少将(こしょうしょう)と呼ばせた。
この頃小少将、10代の前半だったといわれる。
彼女は持隆に深く愛され、天文7年(1538)には後に阿波最後の守護となる真之を産んだ。

が、その頃から、彼女の奔放な性格が頭をもたげ始めた。
小少将は細川持隆側室でありながら、その重臣であり、畿内を制する三好長慶の弟として実質的に阿波、及び
四国全体を支配している三好義賢(実休)と密通したのだ。義賢も小少将に夢中になった。

天文21年(1552)、義賢は細川持隆を謀殺する。政治上の対立もあったと言うが、義賢が先ずしたのは
小少将を自らの正妻としたことだった。小少将は正妻のことを指す大形殿と呼ばれ、長治と、後に讃岐十河氏を継いだ
存保の二子を産んだ。
時はまさに三好氏の絶頂期であった。義賢は小少将の美貌に骨抜きにされ、彼女は権勢を欲しいままにしたと言う。

だが、永禄5年(1562)、義賢は久米田合戦で戦死。
義賢の後は嫡男長治が継いだが、わずか9歳という若年のため、三好家重臣、篠原長房が後見した。

ところがこの頃、小少将は今度は、事もあろうか長房の一族(弟とも言われる)の篠原自遁と通じたのだ。
長房は自遁を強く諌めた。亡き主君の正妻と通じるとは何事か、長房自身の立場もなくなるではないか!
ところが自遁はこれを恨みに思い主君長治に讒言をし、元亀3年(1572)、これを信じた三好長治の軍勢に
攻められ、居城上桜城にて自刃して果てた。

この長房の死により、阿波の国人たちの心は三好家より離れていった。
さらに三好家の重臣の中で唯一松永久秀と対抗出来た篠原長房の死は、久秀の野心を解き放たせる結果ともなった。


やがて三好長治は同母兄の細川真之と対立し、天正5年(1577)、阿波荒田野で敗死。

これに勝った細川真之も天正10年(1582)10月、八幡原にて死亡。兄を殺された十河存保の攻撃によるものとも、
長曽我部元親による謀殺によるものとも言われる。

十河存保も天正14年(1586)秀吉の九州征伐に従軍し戸次川の戦いで戦士したこと、皆ご存知であろう。
小少将の子たちは争いあい、皆、悲劇のうちに死んだ。


さて、その小少将だが、彼女の居た勝瑞城は、天正10年(1582)、四国制覇を目指す長曽我部元親の攻撃によって
陥落する。この後の小少将の行方はわからなくなる。

が、しばらくすると彼女は、長曽我部家の記録に現れる。しかも元親の側室として。
この頃小少将、おそらく50前後であっただろう。その年齢であっても権力者を惹きつける美貌と魅力を、
小少将と言う女性は保っていたと言うことであろうか。

その後、小少将がどのような人生を送ったのかよく分からない。
彼女の美貌を愛した者たちの家、阿波守護細川家、三好家、篠原家、そして長曽我部家、
これらは皆滅びた。


戦国の阿波に現れた、傾国の美女に付いてのお話である。




20 人間七七四年 投稿日:2010/04/10(土) 00:31:51 ID:hPRvk/0D
細川家裁判員「歌仙に列することを認める」
森家裁判員「刺しとくか?」
島津家裁判員「待て、ちょっと親父秘蔵の刀で切れ味試させろ」




24 人間七七四年 投稿日:2010/04/10(土) 01:34:20 ID:YWleKn8/
飛加藤の幻術

常陸国秋津郡の生まれで有名な忍びの者「飛加藤」がある時、上杉謙信の
春日山城下に現れ、街中で様々な幻術を使い人々を驚かせた。

この日、飛加藤は大牛一頭を広場に引き出すと、大盛の見物人太刀の目の前で、
それを口に入れ、あっという間に飲み込んだ。

見物の者たち大いに驚き騒いだが、あまりに多くの見物人が取り巻いていたため、側の
高い松の木に登ってこれを見ていた男が叫んだ

「嘘じゃ!嘘じゃ!ここから見ると飛加藤は、ただ牛の背に乗っただけじゃ!」

幻術の正体を明かされた。これには飛加藤も腹を立て、足元の、双葉が出たばかりの草をとり
これを扇であおぐと、どうしたことかその草から蔓が伸び、見る見るうちに夕顔の花が咲き
実を結んだ。
そこで飛加藤は小刀を抜き、夕顔の実をヘタの部分から切り落とした。

と、なんということか、
飛加藤が夕顔を切った瞬間、松の木の上にいた男の首が胴から離れ、そのまま下に落ちた。

見物の人々は加藤の術の余りの恐ろしさに、皆その場から逃げ出したと言うことである。




26 人間七七四年 投稿日:2010/04/10(土) 01:34:33 ID:tJoKXuXO
このスレが好きで、まとめサイトもよく見るようになったんだが、wikiで
>真田信繁の方が実は長男で信之が実は次男なのだが、信繁の母の方が身分が低いので長男と次男を入れ換えられたという異説がある。

って記述あったんだが。
嘘だといってよ皆!
次男な信之殿とか絶対長生きできないだろJK




28 人間七七四年 投稿日:2010/04/10(土) 01:47:00 ID:YWleKn8/
>>26
それは信之の「幼名」が源三郎で、信繁の「元服後の通称」が源次郎だと言うところからきた
ただの珍説。(信繁の「幼名」は弁丸)
この時代生まれた順番に太郎次郎と付ける習慣はない。




44 人間七七四年 投稿日:2010/04/10(土) 21:56:43 ID:CNOVSvbV
二代将軍秀忠はひじょうに花を愛した。
大名諸侯はこのことを知っていて、領内特産の花木、あるいは特に改良した品種を競って秀忠に贈った。
それらの中で秀忠を虜にしたのが、花弁に斑の入った椿である「広島しぼり」である。

秀忠はこれを接ぎ木で献上されたが、さっそく本丸の御庭に植えた。
そして手入れの者に椿の育ち具合や花芽の様子、開花時期などを逐一尋ねる。
そのため、手入れの者も「広島しぼり」には特に気を使い、葉の一枚一枚まで念入りに手入れしていた。
しばらくの後、つぼみが開き始めたので秀忠に知らせたのだが、肝心の将軍は、
「花は見事か? ……斑の入り具合はどうだ」
と尋ねるばかりで庭に出てきて観賞しようとしないのだ。
日ごろ気にかけていたにも関わらず、せっかくの開花を見ることはなかった。

実は、その時秀忠は喪服中の身で、直射日光にあたってはならないという、宗教的な定めのために、
「広島しぼり」を観賞したい気持ちを懸命に抑え込んでいたのだ。
戒律を順守したためにせっかくの名花を見られない秀忠の気の毒な話。




45 人間七七四年 投稿日:2010/04/10(土) 21:57:47 ID:CNOVSvbV
もういっこ

サイトにある秀忠に仕えるには・いい話?
>若侍A「こないだ神様がいるっていう池で鰻を取ったんだ。みんな『タタリがある』って
     怖がるんで俺だけ食ったけど、タタリどころか下半身がモリモリっスよ!」
>若侍B「ハハッワロスw」
>ガラッ 
>「話は聞かせてもらった!」 翌日、若侍は磔にされた。

>秀忠「民の手本たる侍が神を恐れぬようでは、『神に懸けて』誓う意味が無くなるわ!」
をちょっと細かく



二代将軍秀忠が伊豆三島の本陣に宿泊したとき、
将軍を前にして、近習の侍たちのよもやま話が始まった。
近頃流行している着物から武芸の話へ移り、やがて先ほどのこととして、
一人の男が武勇譚を語り始めた。

その男は今日、三島明神を通った際、
「普段は神のウナギなどと恐れて、誰も捕まえないが、
今日は上様の御供で参ったのだから、食ったところで何のタタリもあるまい」
と、神池のウナギを捕まえてかば焼きにして食ってしまったという。
「近頃まれな豪胆な者よ」などと家臣らが褒めたたえるのを聞いた秀忠は、
くつろいだ姿勢から急に起き上がって、
「今の話をもう一度聞かせよ……!」
得意げになった男からもう一度話を聞くと、
「佐渡守を呼べ」
本多正信がすぐに伺候した。すると秀忠は男にもう一度話をさせ、そして、
「明日その者を三島で磔にかけ、理由もはっきり書き出しておけ」
と命じた。
将軍の権威をかりて神を軽んじるとは、とんでもない曲事として男を処刑したのだ。

「将軍は神よりえらい」と思って調子にのった男の悪い話。




63 人間七七四年 投稿日:2010/04/11(日) 17:47:39 ID:Fyd2D6aC

武田信玄と嫡男義信の間で諍いが起こった時の事。

「長禅寺の春国、東光寺の藍田、恵林寺の快川の三名が春の初めから現在(六月末)
まで色々とりなしを行ってきたが、未だ結論は出ておらず、他国へ放逐となった家
臣の帰国も叶えられていない」(快川紹喜の書いた手紙)

この頃には既に義信と信玄の間は決裂しており、義信が幽閉されて既に一年以上経
っている。
永録八年正月に幽閉、十年十月に死去。この手紙は九年六月末に書かれたとされて
いるモノだ。

「信玄はまったく義信について理解しようとしない。ほとぼりが冷めた頃、来年か
再来年くらいにでも信玄に一言言うべきだろうか。でも、私の様な路傍の僧侶が口
を挟んでも禍にしかならないかも知れない……」(快川紹喜の書いた手紙)

上の手紙とは別人に宛てた手紙だが、ほぼ同時期に書かれた手紙である。

さて、突っ込みどころはどこだろう。
「ほとぼり冷ますの長っ!!」
「アンタ十分口挟んどるやん!!」

……いやいや、突っ込みはいいんだ。今回はそーゆー話じゃなくて。

信玄と義信の対立に至る原因は実はハッキリとは判っていない。
今川との同盟を巡る意見対立だとも言われるが、義信幽閉から約四年、死後一年あ
まりも駿河攻めを起こしておらず、納得出来ない部分が残る。
が、上の手紙を見る限り、快川は非があるのは信玄だ、と考えているらしい。

信玄は一体、義信の何を判ろうとしなかったのだろう。
ほとぼりを冷ますのが長すぎた為か、快川が物申す前に義信が死んでしまったのは
残念なコトである。


ちなみに義信の死んだ時、快川は美濃に里帰りをしており、甲斐を留守にしていた。
幽閉されて約三年、腹を切る様子もなく生きてきた義信が、擁護派の快川が留守中
に謎の死を遂げる……どうにも意味深なタイミングだと思ってしまうのは私だけだ
ろうか?

何だか良くわからないが、とにかく義信にムカついていた信玄、というお話。




82 人間七七四年 投稿日:2010/04/12(月) 18:27:31 ID:ees48gsC
三斎様、そのこだわり

ある時細川忠興が、刀の拵えに付いて語った。

「え?私の刀や脇差の拵え?ああ、全部本阿弥家さ。
本阿弥家に任せるとそれぞれの刀の身に応じて、金具も、柄も鞘もカスタムメイドしてくれるからね。
それも実にセンスがいい。
こういう事の大切さを知らない人間の刀の拵えは、借り物の着物を来てるみたいで
もう見ていられないよね。

小堀遠州殿や佐久間将監殿は私に頼んで、私を通して本阿弥家に拵えをしてもらってるよ。
天下の宗匠なんて呼ばれてる片桐石州殿だって、配下に天下一なんて言われている人間がいるのに、
それには頼まず

『武士の腰の物を訳も知らないものに任せるのは不物数寄なり!』

なんて言って、本阿弥家に過分の扶持をしている。

こんなふうに茶人として名のあるほどの、センスの有る侍はみんな、本阿弥家を選ぶのさ。」

まあ、本阿弥家を褒めているんですが、『その本阿弥家を選んでる俺のセンスの良さってどうよ!』
って妙に自慢気な忠興の声が聞こえてきそうなのでこっちにw




83 人間七七四年 投稿日:2010/04/12(月) 18:30:59 ID:fCB1S5Em
実際にセンスある人だしな、三歳さん。
才能だけなら、芸術だけで食えると思うよ。
性格がアレだから無理だろうけど。




86 人間七七四年 投稿日:2010/04/12(月) 19:32:25 ID:uxIhpyG0
幽斎もそうだけど、領主として・武将としての
政務もおろそかにしなかったのはすごいよね>忠興




100 人間七七四年 投稿日:2010/04/12(月) 22:54:05 ID:2dZo3b8J
さて、最近すっかりアッーのイメージが付いてしまった大内義隆の最期にまつわる伝説。

ご存じの通り、陶に反逆された揚句重臣一同に見捨てられ、北長門まで落ちのびてきた義隆一行。
海路石見か九州へ逃れようとしたが、海が荒れて進めない。
仕方が無いので陸路を15kmぐらい引き返し、三方が山、一方が川というちょっとした要塞みたいな太寧寺に籠ることにした。
色々あっていい加減疲れた義隆殿、水を所望して何気なく参道脇にある井戸を覗き込む。
するとその水面には、あるべきものが映っていなかった。

「……首がない」

これで駄目押しされた義隆殿、見事腹を斬ったそうな。

後の参道改修の折にこの井戸は潰されたが、今は境内の隅の方に、この時兜を掛けたという兜掛けの岩(ママ)と共に
姿見の池として再現されている。
もし行かれる機会があれば、湯治のついでにでも覗き込んでみては如何だろうか。
ある大名の最期にまつわる、縁起の悪い話。

ちなみにこの寺、元関東管領・上杉憲実の墓もある。誰得。




104 人間七七四年 投稿日:2010/04/13(火) 00:08:13 ID:sdcRd+tu
書いてみた

上杉憲実と言う人がいる。
鎌倉公方、足利持氏の下で、関東管領を勤めていた人だ。
憲実は非常に有能で、かつ人望も深く、当に関東の要というべき人物であった。

彼の主君持氏は京の将軍、義教と対立を深めたが、憲実は京と関東の融和を心がけ、
持氏が暴発しないように、身をもって防いでいた。
が、将軍の位を求めていた持氏には、彼の存在が目障りでしかなかった。

いたたまれなくなった憲実は関東管領を辞任したが、対立は解消されなかった。
そして持氏は嫡男、賢王丸の元服にあたり、それまでの、将軍の諱一字を受けるという
慣例を破り「義久」と名付けた。これは将軍家からの独立を宣言したに等しい。
憲実はこれを激しく諫め、両者の緊張はピークに達した。

永享十年(1438)八月、持氏は憲実討伐の兵を挙げた。永享の乱である。

憲実は主君に打たれることを恥じ自害しようとしたが、それに気づいた
近習達に止められ、鎌倉を離れ領国上野へと下った。

この挙兵に対して、かねてより持氏を警戒していた幕府の対応はすばやく、
九月初頭には駿河の今川などを中心とした討伐軍が関東に侵攻し、十月十九日、武蔵府中、
分倍河原において、持氏は完全に包囲された。
持氏の挙兵は、完敗に終わったのだ。

足利持氏は剃髪し、罪の許しを請うた。
この時憲実は、自分を殺そうとした持氏とその嫡子義久の助命を幕府に懸命に願い出た。
だがそれは許されず、持氏、義久、ともに自害。
憲実は補佐を果たせなかった責任を取り、出家、隠遁した。

だが、関東はその後も結城合戦が発生するなど、極度に不安定化していた。
乱のたびに憲実はやむを得ず出陣し、それらを平定した。
幕府が関東の安定のために、彼の能力と人望を必要としていたのだ。
何度となく関東管領への復帰を打診されたが、彼はその度に拒絶、さらにその子供達も
皆出家させ、幕府の誘いにのり、還俗して管領職に就くことなど決して許さぬ、そう言い渡した。
後、長男憲忠が還俗し関東管領につくと、最初の言葉通り憲実は、この憲忠を義絶する。

憲実が懸念したように、憲忠は新たな鎌倉公方、足利成氏と対立、
ついに成氏の命を受けた結城氏家臣多賀谷高経によって謀殺され、これにより
享徳の乱が勃発。関東での戦国時代が始まる

憲実は世をはかなみ、持氏親子らの慰霊のため諸国行脚の旅に出る。
その最後は文正元年(1466)、関東から遠く離れた、長門国大寧寺においてであった。

当時、当代一と言われた画僧、宗湛は、憲実の死ををこう評した。

「人皆その風を望み、敬せざる無し。忽ち逝去を聞き、感すべき、慕うべきなり」




110 人間七七四年 投稿日:2010/04/13(火) 05:20:11 ID:8HwYodC/
関東管領の主って将軍ではないのん?



112 人間七七四年 投稿日:2010/04/13(火) 07:40:17 ID:IJ/OC9Mt
>>110
形式上は

室町将軍→鎌倉公方(関東における将軍の代理人)→関東管領(鎌倉公方の補佐役)

って上下関係
しかし関東管領の任命権自体は将軍が握っていたという事なので、まさに板ばさみポジション




113 人間七七四年 投稿日:2010/04/13(火) 08:50:52 ID:EkZ9hXs9
鎌倉公方は古河と堀越に別れたんだっけ?



114 人間七七四年 投稿日:2010/04/13(火) 09:44:29 ID:0K0hm/D0
>>113
ついでに小弓




117 人間七七四年 投稿日:2010/04/13(火) 10:58:17 ID:WQU+MyPO
こういう時は関東のスカッとする話を

永禄7年(1564)1月、うっかり小田原北条家と結んだ小田氏治に対し激怒した佐竹義昭は、上州で獲物を求めて
越年していた軍神を召喚した。
八千の兵を率いて常陸小田領内の山王堂に陣取り、佐竹・宇都宮・多賀谷ら馳せ参じた関東諸将を前に、
「この辺りに骨のある侍は、おるか!」と、いつも通りの関東管領・上杉輝虎。

「この先の海老ヶ島城に、平塚自省入道という小田配下の者がおります。三浦党の末裔を名乗るしぶとい武士、
夜討ちでもされたら危のうございます。ご用心下さい。」と忠告する諸将に対し、
「むしろ、こちらから朝駆けして首を取ってやるところよ。向こうから夜討ちをかけて来るなら、それこそ天の助け。
なで斬りにして、死人の山を築いてくれよう。」と答えてカラカラ笑う輝虎に、諸将は身の毛のよだつ思いがした。

しかし小田方からの夜討ちは無く、輝虎のもとに急報が入ったのは翌朝になってからだった。
「申し上げます!小田氏治みずから・・・」「みずから奇襲か、なかなかやるな!よし、わしの馬を引けい!」
「いえ、みずからやって来たのですが、わが軍の手前で留まり、川を背に陣を構えております。」

( ゚д゚) ?!

氏治「がはは、実は山王堂は以前に戦を経験しており、土地勘があるのだ!川を背にしても、手前は深い泥田。
上杉軍が足を取られたところを、つるべ撃ちにしてくれるわ!」
菅谷政貞「以前の戦・・・って、結城さんにボッコボコにされて土浦に逃げた戦ですよね?」

戦が始まると上杉軍は、『策など要らぬ』とばかりに、小田陣目がけて突っ込んで来た。
「よーし動くな、引きつけよ!泥田にはまり、止まったところで・・・」

止まらない。止まらない。ぜんぜん止まらない。
「え?なに?どういうことなの・・・」
「上杉軍のほうが先に陣取ってるんですよ?地形を調べて、通れる場所を探ってあるんです。」
「そんな・・・・・・す、菅えもーん!」
「仕方ないなぁ、うじ太くんは・・・ジャジャーン『決死の殿軍』!覚悟完了したウチの息子が、身代わりになって
死んでくれるよ!」「ちょ、おま」

こうして勢いの乗った上杉に海老ヶ島城・小田城を奪われるも、菅谷政貞の子・彦次郎政頼らの犠牲により、
氏治は逃げ延びることが出来た。(政頼は数年後の太田三楽との戦いで戦死した説もあり)

が、この後七、八回ぐらい似たようなことを繰り返す天庵様でした。




156 人間七七四年 投稿日:2010/04/14(水) 21:43:32 ID:jZTmGP3L
天文の頃、遠州気賀に住み着いたある一団があった。
信州の小笠原、木曽の傘下であったのが武田信玄に圧迫されて、今川氏を頼って移った尾藤主膳、竹田高正、山村修理らの諸将である。
彼らはここに堀川城を築き、新天地で安息の時を得るかに見えた。

ところが永禄三年、桶狭間の合戦で今川義元が敗死すると、ここ遠州には徳川家康の手が伸びてくる。
そして永禄十二年、押し寄せる徳川軍を前に気賀の住人は老若男女城に立てこもって善戦するも、
家康の手によってついに陥落、住民3000人の内1700人が討たれるという壮絶な撫で斬りにあって滅亡した。

このとき、城将尾藤主膳、山村修理、斎藤為吉、竹田高正、同高直、同高道らも討死・自害して、
高正の4男乙若丸と、桶狭間の後に尾張で森可成に仕えていた主膳の弟源内が残された。
しかしこの源内も嫡男又八郎とともに宇佐山城の戦いで主君可成に殉じ、
次男・甚右衛門と三男・久右衛門が残される。後の豊臣家臣、尾藤知宣と宇多頼忠の兄弟である。

尾藤知宣は豊臣秀吉に早くから仕え、小牧の役、四国征伐に従軍して5万石を領し、黄母衣衆に名を連ねて羽柴四天王の一人とも称される。
遠州に残って武田氏に仕えていた頼忠も、兄を頼って秀吉に士官、秀長の家臣として1万3千石を領する重臣となる。
政権の腹心石田三成とも娘を嫁がせて結びつき、兄弟の行末は安泰かに見えた…

だが、さらにさらに悪い運命がこの一族を襲うのである。
まず兄・知宣は九州征伐で失態を演じて改易され、小田原攻めで秀吉の前に現われて許しを乞うも、
許されずに処刑されてしまう。
そして頼忠も所領を返上し、三成の元へ身を寄せたのだが、
後に起こる関ケ原の役で西軍は敗戦、彼も燃え落ちる佐和山城と運命を共にしたのであった…。

一方、堀川城の悲劇を免れた竹田乙若丸。
3歳で故地信州木曽に逃れた彼は、数年の雌伏を経て高治と称し、尾藤兄弟と同じく豊臣家に仕えた。
そして、大坂の陣では毛利勝永隊に属して戦っている。竹田永翁である。
しかし父兄の仇敵家康の率いる天下の軍勢の前に大坂も落城、
永翁も鴫野の戦いで戦死したとも、大坂城千畳敷で自害したとも言われている。


そんな、代々ついてない一族の話




157 人間七七四年 投稿日:2010/04/14(水) 21:49:54 ID:D2BGxzg4
>>156
家康が若い頃に皆殺しやってたなんて意外だ・・・
まあきれいごとで戦国大名が務まるはずもないが。




158 人間七七四年 投稿日:2010/04/14(水) 22:44:21 ID:nqPitrgM
>>157
堀川城は掛川城で和睦した帰りの家康に、領民主体で家康襲撃を計画して、
それを察知した家康が雑兵の姿になって難を避けたことがあった。

そのくらい堀川城は反家康的な空気が強かったのだろう。
それもあっての撫で斬りだと思われる。




159 人間七七四年 投稿日:2010/04/14(水) 23:10:28 ID:kLlbWRsQ
家康って、基本的には鷹揚だけど、反抗的な有象無象な人材には容赦ないって感じかしら?
本田正信とかくらいなら、許されるにしても




163 人間七七四年 投稿日:2010/04/15(木) 00:13:20 ID:lMY6nLDS
>>159
つーか堀川城の撫で斬りで、それに連携していた周辺の城は全て、家康に戦わずして
屈服したので、当時の家康としては必要なことだったんだろう。




164 人間七七四年 投稿日:2010/04/15(木) 00:38:01 ID:FzIA41Jx
>>163
家康が、堀川城を撫で斬りにすれば他は降参してくると予測したから、あえて撫で斬りしたってこと?
そんな神がかったシミュレーションって、実在の人間に可能なのかね?

報復のために撫で斬りにしたら、思いがけず周囲の城砦まで自落してくれたので儲けた、って話の方が可能性が高そうだ。




166 人間七七四年 投稿日:2010/04/15(木) 00:56:00 ID:lMY6nLDS
>>164
戦国期の撫で斬りって言うのは、敵対する勢力に領民の安全保障をする能力が無いことを
知らしめるための戦術、と言うのが今の歴史学では定説だと思う。

この撫で斬りで家康は、反徳川の勢力には家康に対抗して住民の安全を保証する
能力が存在しない、と言うことを知らしめたわけで、遠江を侵略する立場であった
家康としては、その権威の確立のためにもどこかで見せしめが必要だったとは思う。

家康に限らず戦国大名には、強面の面を見せて住民を屈服させないといけない時期が
必ずあるものだよ。良い悪いとは別の意味でね。




160 人間七七四年 投稿日:2010/04/14(水) 23:31:37 ID:+sTMxZ5e
家康熱狂

体に悪い話。徳川家康は生涯で四十数回に渡り戦場に臨んだという。
戦では切迫した事態になる事もある。
そんな時、彼のアドレナリン分泌は最高に達するのであろう。

 家康「ハイになってきたー!!」

家康は興奮を鎮める事ができず、鞍の前輪を思いっきり殴打するのだ。

 (゚Д゚;)「と、殿! 指の節から血が吹き出ておりますぞ!?」

興奮しすぎると血を流すほど殴りつけたという。
のちにこの癖は治したらしいが、繰り返すうちに指の節にはタコができてしまった。
老後の家康は、節がこわばるので、すぐに指がまっすぐにならなかったという。




161 人間七七四年 投稿日:2010/04/14(水) 23:51:29 ID:/Sfb2tlS
若い頃はそんなに激昂しやすかったのか
これを沈める為に三河武士の面々がめんどくさくなったのかもしれんなw
三方ヶ原で脱糞した挙句
ばあさんに追いかけられてこの癖が直ったんだろうな




182 人間七七四年 投稿日:2010/04/15(木) 20:42:30 ID:U5OSEXt1
将軍の食膳に異物が入っているようなことは滅多にあるものではないが、
四代将軍家綱が汁物を飲もうとしたとき、毛髪が入っていたことがある。
家綱はそれを平然と箸でつまんで取りだした。
しかし、これを見ていた小姓はあわてた。
「すぐに新しいものを持ってまいります」
と言って椀を取り上げようとした。対して家綱は、
「その汁は途中で捨て、椀を空にしてから持ってまいるのだぞ」
お代わりをしたことにせよと暗に催促した。さもないと誰かが責任をとって島流しにでもされてしまう。
これは家綱なりの心づかいであった。毒殺などの脅威よりも煩わしい処分や配下の身を案じるという、
なんとも、戦雲のおさまった天下太平の時代らしい話である。

時は遡り、三代将軍家光のころは、まだ戦国の遺風があちこちに残っていた。
食膳を預かる者にしてもまだまだ武骨であった。

家光は隅田川を渡って、向島に鷹狩りに来た。
その日はあいにく風が強くて獲物がなく、家光は不機嫌だった。
木母寺で食事をとることになり、膳が出た。家光が汁物をすすったところ、砂が入っていた。
「台所頭に腹を切らせよ」
家光は即刻、近侍の内田正信に命じた。
武将マニアの家光でもあり、このあたりの処断は戦国時代の気風濃厚である。
これを伝えられた台所頭の鈴木喜左衛門は、すぐにまかり出ると、
「御膳に砂が入っていたわけではございませぬ。
今日のような風の強い日に、上様が御口をすすがずに召されましたから、砂をかまれたのでしょう。
口をすすがれてのち砂をかまれましたのならば、首をはねられるなり、腹を切るなり仰せに従いまする」
喜左衛門の言うとおりであった。
家光は彼の申し開きを賞して二百石を加増している。

同じ将軍とはいえ時が変われば質も変わるというお話。




184 人間七七四年 投稿日:2010/04/15(木) 21:22:37 ID:FzIA41Jx
本当に戦国時代には
汁に砂が入っていた程度のことで切腹させたりしたのだろうか?




185 人間七七四年 投稿日:2010/04/15(木) 21:28:13 ID:h6GANVUF
妻の姿を見ただけで庭師を斬り殺した武将もいるくらいだから不思議じゃないだろ



187 人間七七四年 投稿日:2010/04/15(木) 22:17:06 ID:x6sY4/re
石田三成の有名な逸話
関ヶ原の戦いの敗戦の後、捕らわれの身になった際
ノドが渇き水を所望した三成が、水が無いので変わりに出された干し柿を、
「柿は痰の毒だ」と拒否したというお話。

ここで一つ豆知識。
干し柿の主な効能として、肺を潤し咳を止める効果があり、
さらに干し柿のまわりの白い粉末には「化痰」=痰を溶かす効果があるそうです

……素直に食ったほうが良かったのかもしれないという話。




190 人間七七四年 投稿日:2010/04/15(木) 22:33:08 ID:lMY6nLDS
>>187
三成のこの干し柿の話は色々なパターンが有って、
与えられたものもこの干し柿から普通の生の柿、生水など、
そしてそれが与えられた場所も刑場に向かう途中から捕縛されて輸送される段階まで、
江戸期の関ヶ原を記録した書籍が違うと内容も違う、って感じになってる。

これに限らず三成が捕縛されてから処刑されるまでの過程は、えらく情報が交錯していて、
実際にはどういうものだったのか、さっぱり解らなかったりする。




195 人間七七四年 投稿日:2010/04/16(金) 00:31:48 ID:9R3dRsqQ
天正元年(1573)9月1日、近江、小谷城は陥落。浅井長政は自害。
その妻であり織田信長の妹であるお市は三人の娘と共に信長のもとに送られた事、
これは有名である。

だがこの時、長政の嫡男である万福丸は別に密かに逃がされ、敦賀の木村貞之介と言う者に
預けられた。

万福丸の行方がわからぬことに気づいた信長は焦り、お市がその行方を知っていると考えた。
そして信長はお市の元に行くと、こう、打ち明けた

「万福丸の行方をお前は知っているであろう。どうか、それを教えて欲しい。
お前は、行方を教えればわしが万福丸を殺すと思っているのであろうが、それは違う。

わしは長政のことを恨んではおらぬ。むしろ、わしとよくあそこまで戦ったと尊敬しておる。
そしてその子の万福丸は、我が甥でもあるではないか。

わしはこの甥を手元におき、長政に劣らぬ立派な武将として育てたいのだ。」

お市はこれを信じ、信長に居場所を教えた。


万福丸は捕縛され、信長はすぐさま処刑を命じた。当然ながら万福丸を許す気など、最初から
ないのだ。

10月17日、万福丸は関ヶ原で串刺しの刑に処される。享年、10歳。
信長、禍根を絶つため妹をも謀る。と言うお話。




196 人間七七四年 投稿日:2010/04/16(金) 00:44:28 ID:BUT1+ySW
当然では有るのだけど、悲しい逸話だな



202 人間七七四年 投稿日:2010/04/16(金) 01:44:54 ID:ZsGkmZTD
この話、万福丸を処刑したのは秀吉だったという説もあった様な。だから秀吉が
どんなにお市にアプローチしても見向きもされなかったとか。




205 人間七七四年 投稿日:2010/04/16(金) 03:12:24 ID:QJIaPkC3
>>202
勝手に上司の甥っ子殺せないよ。




206 人間七七四年 投稿日:2010/04/16(金) 03:47:52 ID:hm5YhNAp
>>205
命令はその上司である兄から出ているとは判っていても
実行犯であった場合は、はい、そうですか、命令なら仕方ありませんでしたね、
あなたも小さい子供をむごい目に合わせるのはつらいかったでしょう
と、物分り良く感情がおさまるもんでも無いだろう




251 人間七七四年 投稿日:2010/04/18(日) 22:06:35 ID:JISZwdd8
武田信玄が未だ、幼名の勝千代と呼ばれていた頃のこと。

ある時武田信虎は、人々を伴って据物を行ったことがあった。据物とは死罪となった罪人の死体を使って
刀の試し斬りをすることである。

最初、信虎自身が斬り、次に次男の次郎(後の典厩信繁)に仰せ付けた。
次郎は畏まり、手際よく胴を切り落とした。

その次に信虎は、勝千代に据物をすることを命じた。
勝千代はそれをどうにかしてに断わろうとしていたが、父であり主君たる信虎の命であり、已むを得ず、
刀をとって死骸に立ち寄った。

この時勝千代の顔色は青く変わり、手も震えている様子で、案の定斬り損じてしまった。
これに信虎は大いに怒り、次郎の手を引いて奥に入っていってしまった。

ところが勝千代は、信虎がいなくなった頃には顔色も直り、打ち笑って愉快気な様子であった。
これを見た周りの普通の者達は、勝千代のことを嘲り笑ったが、荻原昌勝だけは

「この人は大丈夫の器であり、将来智勇の大将となられるだろう。」

と感じ、 その事を甘利虎泰、板垣信方にも語ったのだと言う。

裏読みすると勝千代はわざと怯えた風を見せ信虎を怒らせ、その場から去らせた。
荻原はそれを見てとった、と言うことだろうか。

幼き日の武田信玄、据物を斬り損なう、と言うお話。




270 人間七七四年 投稿日:2010/04/20(火) 01:32:19 ID:26dkPRRV
武田信虎には、かわいがっていた猿があった。
「白川」と名付け、常に膝下においていたという。

天文六年(1537)6月11日のこと。
この猿が御座の間から、脇差を抜いてそれを持ったまま、誰にも知られずこっそりと抜け出した。

その日、鷹の間の当直は今井貞邦であった。
彼が鷹の間において一人で、少しうつむいた形で座していると、猿がその後ろから近づき、脇差を振って
今井の肩先を斬りつけた!

その日は暑気甚だしく、今井は薄い帷子の単を着ていただけであったので、脇差の刃は肌まで届き
背中は朱色に染まった。

猿の白川は血がでたことに驚いて鳴き叫んだ。そして今井は

「畜生に傷をつけられるとは我慢ならぬ!」

と激怒し、刀を抜いてこの白川を一刀のもと討殺した。
この音に驚いて、同僚である鎌田、織部、小山田彦太郎、安田三右衛門尉と言った者たちが集まってくる。
貞邦は事の次第を語り

「それがしは数ならぬ者であると言えども、若年より数々の合戦において、一度も不覚の名を
取ったことはありませぬ。それが今、この白川と言う猿によって薄手を負ってしまったこと、
口惜しくてなりませぬ。
もし世の人から、今井貞邦は畜生に追われて後傷を受けたのだ、などと笑いの種にされ、
後ろ指を指されてはその無念さはどれほどでしょうか。」

そう、涙を流して怒った。


しかし、この報告を受けた信虎は

「猿は元より畜生である、分別を持っているわけがないではないか!
貞邦が手傷を負ったのは誰のせいでも無い、ただ単にあ奴が不運であった為である。
それを何か!?わしが秘蔵する白川であると知っていながらそれを斬り殺すとは、
これはこの信虎に向かって太刀を振ったのと同じである!」

そう怒り狂い今井貞邦を捕縛させ、切腹とさせたと言う。


武田家の重臣達に、信虎排除を考えさせるきっかけになったとも言われる、武田信虎の猿についての
逸話である。




271 人間七七四年 投稿日:2010/04/20(火) 01:54:30 ID:swsYZo6a
刀で切りつけるとか芸達者過ぎるだろ猿w



273 人間七七四年 投稿日:2010/04/20(火) 08:25:51 ID:cf78VYSg
実は猿を調教していたのは信玄だったりしてな



278 人間七七四年 投稿日:2010/04/20(火) 15:01:35 ID:EzQWDSQR
丹羽長重の家臣に、南部無右衛門と、永原松雲という男がいた。

無右衛門は武辺者として知られたが、傍若無人の振る舞いがひどく、妻帯せずに養子をもらい、招かれもせぬ宴席に
養子まで連れてやって来ては膳を平らげ、しまいには重臣が長重を招いた席にも現れ、勝手に飲み食いした。
たまりかねた重臣が主君に苦言したが、長重は、
「無右衛門の行状はあきれ果てたものだが、ヤツの武勇はそれあってのもので、今さら改めさせても、
角を矯めて牛を殺すようなものだ。捨て置け。」と言うので、みな無右衛門に白い目を向けながら黙っていた。

一方、松雲は軍学や有職故実、和歌等に通じ、「あれこそ器量人よ。」と家中から賞賛を浴びる身だった。
面白くない無右衛門が、毒を吐く。
「ふん、口先の軍学など実戦の役に立つまい。いざ戦になれば手に覚えた、わしの早業に比べるべくもないわ。」
これを聞いた松雲も、
「無右衛門の如き葉武者は、しょせん槍一本の働きのみ。味方を勝利に導くような大功は、有り得ぬ。」と、罵った。


慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの機運が高まると、丹羽家中には人質を出すよう触れが出された。
養子しか家族のいない無右衛門は、これを断ったが、
「こんなお触れは、あの松雲めが軍学者ヅラして、わしへのイヤガラセに入れ知恵したものだな!よし、殺す。」
逆恨みして松雲の屋敷に駆けつけると、松雲への面会を申し込んだ。

日ごろ仲の悪い無右衛門の来訪に、イヤな予感がした松雲は居留守を使ったが、無右衛門は下男の断りを無視して
屋内に入り、松雲を発見すると脇差を抜いて松雲を押し倒した。
下になりながらも松雲は柔術で無右衛門のヒジを押え、腕を絡み取ると、脇差を奪い取って部屋の隅へ放り捨てた。
しかし、腕を取られながらも暴れることをやめない無右衛門は、
「ガ―――――ッ!!」松雲の鼻っ柱に噛み付き、松雲の家の者五、六人が取りついて、やっと押さえこんだ。
とんでもない騒ぎを起こした無右衛門だが、『戦の前に人数は減らせない』として、不問に付された。


その後、浅井畷で丹羽と前田の間で戦が起こり、丹羽家家老・江口三郎右衛門が敵を深追いし過ぎ、苦境に陥った。
一隊を任されていた松雲は、「もはや手遅れであり、救援は無益だ。」として、これを傍観し、自分の隊を温存した。
ところがその時。無右衛門が前田軍の真っ只中を駆け抜け、見事に江口隊を救出し、形勢を逆転してのけた。

無右衛門は「長重様の言葉に違わぬ奴」と賞賛を受け、松雲は「アレは、あてにならん」と評判を落としたそうな。




279 人間七七四年 投稿日:2010/04/20(火) 18:25:27 ID:AVlkW93K
なんとも言えん読後感だ



282 人間七七四年 投稿日:2010/04/20(火) 19:52:51 ID:QEhhR7ZX
結婚もせずに養子をもらったということは
アッー!な関係なんだろうな




291 人間七七四年 投稿日:2010/04/21(水) 21:31:38 ID:1YyCd9U3
遠江の掛川領主で、徳川家康の異父弟である松平隠岐守定勝の嫡男に、松平定吉と言う人がいた。
幼い頃から武芸に励み、伯父である家康から「後々には関東の旗頭ともなるべし。」と
大変可愛がられていたと言う。

慶長8年(1603年)の事。家康上洛の行列が掛川までやって来た。
定勝はこの時19歳の定吉に、行列が遠江を抜けるまでのけ警護を命じた。
そして荒居の渡しに差し掛かり、ここより船を連ねての海路となる。

定吉も家康の船に同船したがこの時、空の彼方に一羽の鷺が飛んでいるのが見えた。
家康も共の者たちも何気なしにそれを眺めていたが、定吉は近くにあった弓を取ると
矢をつがえて遥かかなたの鷺を狙い、見事射抜いた!

これには船に乗った人々拍手喝采で彼を讃えた。
いい気分になった定吉がそのまま家康の御前に出る。
ところが家康、

「定吉、詰まらぬ殺生をするな。飛ぶ鳥も景色のうちではないか。
それに弓矢をとって、万一射損じたらどうするのか?そちは笑いものになるだけだ。
いくら腕に覚えがあると言っても、いたずらにそれを誇るものではないぞ。」

そう、叱った。

定吉は掛川城に戻ると、恥ずかしさのあまりその夜、切腹して果てた。
突然の出来事に城中は大騒ぎとなり、さらに定吉の後を追って、彼の家来
20数人も殉死した。

父の松平定勝は、定吉とその殉死者を、家康に内密で城外の下俣に葬った。
後、ここに五輪塔が建てられ、いつしか「遠江塚」と呼ばれるようになり、
定吉が武勇に優れた若武者だったことから、それにあやかり自分の子が強く育つようにと、
弓矢、刀、鎧を供えこの塚に願をかける人々が絶えなかった、とのことである。


若気のいたりと言うべきだろうか。「遠江塚」の故事である。




302 人間七七四年 投稿日:2010/04/23(金) 10:23:17 ID:QnZWhO2z
既出だったらスルーしてくれ
上杉謙信と不思議な弾丸

謙信が武州忍城攻めをしたときのこと。
篭城の構えを取る忍城を、謙信は自ら見て回った。

狭間口まで来たとき、やぐらの上から成田の兵たちが10人ばかり、
鉄砲で彼に銃弾を浴びせた。しかし、弾はあたらない。
謙信はこれをものともせずに忍城を見ている。
兵たちは自分達が相対している武者が敵の大将だとは知らなかったが、
ともかく再び銃撃した。しかし、やっぱりあたらない。

とある兵が
「ああいう勇猛な武将には弾丸は当たらないって聞く。
 城内に金で出来た弾丸があるから、それを使ってみよう」
と言い出して、3発も撃った。しかし、3発ともことごとく謙信から外れた。

兵たちはついに鉄砲を投げ出し、
「このような名将を我ら如き雑兵で殺してしまってはもったいない!
 どうぞお帰りあれ!」
これを聞いた謙信は、悠々と馬首をめぐらせて陣に戻った。
上杉の家臣も関東の諸将も、この不思議な光景を固唾を呑んで見守っていた。

その夜、家臣の宇佐美定満が謙信に意見した。
「かの源義経も、弓矢の的になった際に家臣に諌められております。
 今日の殿も同じ。敵の弾に当たって死ぬなど犬死にござる。
 以後、お気をつけられよ」

謙信は
「確かにお前の言うことはもっともだ。
 が、人間は死のうと思えは生き、生きようと思えば死ぬものだ。
 心を集中して動じていなければ、火に入っても焼けないし
 水に入ってもおぼれぬ、とある人に言われたのだよ」
そう言って笑った。
これには宇佐美も何も言えなかったという。

(家臣たちの心臓に)悪い話。




303 人間七七四年 投稿日:2010/04/23(金) 11:13:49 ID:Bfov9QvL
鉄砲の有効射程を把握してて、「あの距離じゃどうせ当たらないよ」って言ってたらいい話なのに。



304 人間七七四年 投稿日:2010/04/23(金) 11:20:28 ID:0vMlJy/D
謙信はどこまでガチなのかわからんから怖い



308 人間七七四年 投稿日:2010/04/23(金) 15:11:58 ID:Ax7uHI2W
謙信と鉄砲の逸話といえば小田原城を包囲したとき、篭城する城方を挑発する為に
兜をかぶらず敵前で弁当を食べた超有名な話があったな

北条方の鉄砲隊が銃撃して袖を撃ち抜いたが本人は悠々と食べ続けたという




313 人間七七四年 投稿日:2010/04/23(金) 16:07:45 ID:dcWtVQG6
んじゃ軍神謙信公のちょっとかっこ悪い話をひとつ


今公明

1566年3月に上杉謙信は15000人の大軍を率いて、原胤貞以下2000の兵がいる下総臼井城を包囲し、
臼井城は上杉軍の猛攻の前に落城寸前となった。
と、たまたま城内に居合わせた男が「今孔明」と関東一円に聞こえた軍略家・白井胤治で、落城寸前の
城の指揮権を原から託された。

胤治は「上杉軍は大軍で味方は寡勢であるが、士気はお味方の方が勝っています。かならずや、謙信
めを蹴散らしてくれましょうぞ!」と士気を鼓舞した。
一方、「この程度の小城なぞ一気に攻め落としてしまえ!」と3月26日に謙信は総攻撃をかける。
対して、胤治はなんと城門を全開にして謙信の本陣目がけて突撃をかけ、不意をつかれた謙信軍は大
混乱に陥り一時撤退を余儀なくされた。

翌日、「勢いに乗る原はかならずや攻め込んでくるだろう。」と本陣で手ぐすね引いて待っていた謙信だが、
いっこうに敵はせめてこない。
ついにしびれをきらした謙信は、家来が「今日は悪日です。」と止めるのも聞かずに総攻撃をかけた。
それを待っていたかのように、胤治は臼井城の城壁を一気に倒し、轟音とともに取り付いた上杉兵数百を
崩れた城壁の下敷きにした。

「はわわ。」
謙信はあわてて全軍に撤退命令をだすも、城内から原の軍勢が一気に襲いかかり上杉軍は5000の死傷
者を出して命からがら逃げたという。





324 人間七七四年 投稿日:2010/04/23(金) 19:18:03 ID:SsOIqj5d
天文15年(1546)、武田軍が関東管領上杉憲政の軍を粉砕した笛吹(碓氷)峠の戦い。
この合戦の後、武田晴信は上杉勢の押さえとして板垣信方を置いた。

さて信方はこの陣営において、先の合戦で高名した者にも働きの無かった者にも、皆に
饗応をする、と触れた。
しかしそれには区別があり、先ず饗応の会場を上中下の三つに分け、優れた高名を成したものには三の膳を、
中程の高名には二の膳、働きの無いものには本膳のみ、
さらに二の膳、三の膳には赤椀を用い、それに種々の魚鳥の料理が盛られていたが、
本膳だけの方は黒椀で、それに配膳されているのも精進料理であった。

しかし働きの無かった者とは言えこの差別は流石にいかがなものかと、信方の家臣たちも懸念し
これを密かに信方に告げた。
これを聞くと信方、意外な顔をして

「違う違う、お主達は勘違いをしている。
先の戦では慈悲深い連中が、後生大事だと言うことで敵の首をとらなかった。
こう言った者たちはきっと、平生より受戒を守って食事なども生臭をさけ、精進食を食っているに違いない。
その者たちに肉食をさせ、わざわざ破戒の業をさせるのはこの信方の本意ではない。
だからそのように分けたのだ。」

つまりまあ、皮肉である。
しかしそう言って板垣は、家臣たちの諌めを聞くこと無くそのままの形で饗応を開き、そのため
手柄の無かった者たちは大いに面目を失った、とのことである。

板垣饗応、黒赤を分かつ。と言うお話。




327 人間七七四年 投稿日:2010/04/23(金) 20:00:43 ID:g7GQHIIX
>>324
八幡太郎の「豪の席、臆の席」を思わせる話だがより嫌味ったらしいなw




348 人間七七四年 投稿日:2010/04/24(土) 02:06:17 ID:NFIsZzQR
ある日本多正信が大久保忠隣に話しかけた。
「お主何か身に覚えはないか?」
忠隣がとくにないと答えると正信は「そうかならばよいのだ。」と言って行ってしまった。

またある日正信また同じ事を聞くので忠隣がなぜそのような事を聞くのかと尋ねると
「大御所様が貴殿のことを何かいっておったのでな。」
「どのような事を言っていたのですか?」
「いや何かいっていただけだ。」
「なればしばらく大御所様の御前を遠慮した方が良いでしょうか。
「そうだな。その方がよかろう。」

その後正信が家康の前に出たとき世間話のついでに
「相模(忠隣)はこのごろ、何となくご奉公に遠慮があるように見受けられますな。」と言った。
家康と忠隣の両方になんとなくわだかまりが生じた。

それからしばらくして今度は正信が将軍秀忠に謁したときのこと。
「近ごろ相模は御前に遠慮するような様子はございませんでしたか?」と秀忠に尋ねた。
秀忠が「とくにそんな様子はないがなぜそのような事を聞く」と言うと
正信は「人間というものはとかく奢りの心が出やすいもので、相模の様子を見ておりますと
 あたかも公方様同様の振る舞いが目に付き、大御所様の御前も昔のようではありません。」
と言ったので秀忠も忠隣を疑いの目で見るようになった。」」

『武功雑記』はこの話を「浸潤之誹」と呼び
正信はこのようにして家康父子と忠隣の間に水をさしていったとしている。
真偽はともかくとして正信の悪い話




354 人間七七四年 投稿日:2010/04/24(土) 07:51:35 ID:Kk6rm0SD
親切な忠告と見せかけて、実はそれこそが罠だというんだから
ホント上手いわ正信




355 人間七七四年 投稿日:2010/04/24(土) 08:07:32 ID:L1vVkmjs
俺の想像しているとおりの陰険な正信で安心した



357 人間七七四年 投稿日:2010/04/24(土) 14:33:17 ID:IWOAUQxh
>>355
大久保さんは最後を大名で追われたけど、本多さんは旗本だからね。
まさに因果応報だよ




369 人間七七四年 投稿日:2010/04/24(土) 20:22:17 ID:8E7sbBvv
前田利家・利長親子、細川忠興、蒲生氏郷らが連れ立って大坂城へ重陽の節句の挨拶に出向いた。
四人は多くの供を率い城の前まで来たところで、門番に止められた。

「あー、困りますねー?ただでさえ今日は混んでるってのに、こんなに大勢で来られちゃ迷惑なんですよねー
…ぶべらっ!!」
「……………」
利家が物も言わずに振るった鉄拳を喰らい、門番は吹っ飛んだ。

「な、なにをなさる?!この事は関白様に・・・」 ガシッ
(゚Д゚≡゚Д゚)エッナニナニ?

「……………」起き上がろうとする門番の右腕を、利長が無言でつかみ取り、
「……………」同じく氏郷が門番の左腕をひねり上げ、
「……………」忠興が門番の背後に回り、かの有名な愛刀を、抜いた。

「…え、えーと………な、なんか勘違いしてました!できるだけ早くお通り下さーい!!」


その夜、この面子の若い者三人だけで飲み会を開いたが、
氏郷「いやー、親友の前田殿にまであんな真似するんなら俺、サr …関白見限っちゃおっかなー?」
利長・忠興「だよねーwww」

などとダベっていたそうな。

どっかの鬼が死んでも、戦国の世の門番はスリル満点!さあ、キミもLet's トライ!!




373 人間七七四年 投稿日:2010/04/24(土) 22:03:21 ID:KcWhU0qu
>>369
利家殴り飛ばし→利長・氏郷腕掴み→忠興が抜刀
全員前もって示し合わせてでもいたかのように
バッチリな役割分担で息ピッタリなところが何ともwww

しかし利家…年長者がなにやってんだw




374 人間七七四年 投稿日:2010/04/24(土) 22:57:23 ID:en0tKn6D
なんで誰も何も言ってないのにこんな連携とれるんだよw
絶対常習だろw




376 人間七七四年 投稿日:2010/04/24(土) 23:33:41 ID:rhUPUSD0
>>374
利家「戦国の世を生き抜いた男ならばアイコンタクト無しでの意思疎通など基本中の基本」




378 人間七七四年 投稿日:2010/04/25(日) 03:26:54 ID:fbjRYzsV
年長者利家が真っ先にキレちゃったもんだから、若者三人が慌ててフォローした…

いや、普通に四人でキレただけだな、うん




379 人間七七四年 投稿日:2010/04/25(日) 03:43:40 ID:yhY4dG6F
秀吉の時代の大阪城殿中の有様は、後世語り草になるほどひどかったらしいからね。
まあ戦塵を浴びてきた荒くれ者ばかりなんだから、当然だとは思うが。




386 人間七七四年 投稿日:2010/04/25(日) 15:07:29 ID:E4kAPkQi
いつもの黒田長政、酒癖の悪い話

戦国最後の大戦ともいえる大坂の陣が終結した慶長20年のある日、
京都は東山にて、このたびの戦に一応は参戦した諸将が集まって宴会を開いていました。
大坂の陣打ち上げ会といったところでしょうか。
メンバーは以下の通り、
・黒田筑前守長政(47歳)-筑前福岡52万3千石
・藤堂和泉守高虎(59歳)-伊予今治20万石(今回の功績で32万石に加増)
・有馬玄番頭豊氏(46歳)-丹波福知山8万石(今回の功績で筑後久留米21万石)
・寺沢志摩守広高(52歳)-肥前唐津12万石
・加藤左馬助嘉明(52歳)-伊予松山20万石
・生駒讃岐守正俊(29歳)-讃岐高松18万石
・浅野紀伊守長晟(29歳)-紀伊和歌山37万6千石
下の二人以外はバリバリ戦国世代のいい年したオッサンどもです。

宴もたけなわ盛り上がってきたところで、藤堂高虎が言いました。
「今回の戦には、皆さんのような歴戦の勇が参加されましたが、大して手柄もなかったですね」
これをどう受け取ったのか、そのそばに寝ころんでいた黒田長政がむくりと置き上がって、
「コラ、テメェ藤堂! 聞き捨てならんな。
 ガキのころから今まで戦で後れを取ったことがないこの俺様が、
 今回の戦で活躍できんかったのは、上がおとなしくしとけ言うから控えとっただけや。
 そんな俺の前で軍功自慢とはいい度胸やないけ!」
と、高虎に突っかかりました。
長政がキレる理由がよくわかりませんが、同席した皆さんはさすが長政の扱いに慣れているのか、
「まーた始まったよ、筑前は……。酒の席で野暮なこと言うなよ。まあ、落ち着けって」
と言って、長政をなだめました。さすがに長政もそこは引いて、高虎も華麗にスルーしたので、
もとの他の宴会ムードに戻りましたとさ。




400 人間七七四年 投稿日:2010/04/26(月) 11:01:37 ID:FQL9z4z0
山田有栄は、島津忠恒の命により出水の地頭として赴任し、地元の郷士が歓迎の宴席を設けた。
喜んで宴に出席した有栄が膳に出された汁物のフタを取ると、じっくり煮込んだカエルが入っていた。

有栄が郷士たちを見わたすと、空々しく涼しい顔をして、膳に手をつけている。
(・・・こやつら・・・・・・)出水郷士たちの新任、しかもヨソ者の上司に対する、キツい「洗礼」である。
腹を決めた有栄は淡々とカエル汁を平らげ、そのあわてる姿を見たかった郷士たちは、目を丸くした。

数日後、有栄は郷士たちを集めて言った。
「先日は、なかなか他では食いがたきものを馳走になった。礼を言う。今度はわしが宴席を設け、
他では食いがたきものを食わせてやろう。ぜひ、ご来席あれ。」

恐る恐る郷士たちが宴席に顔を出すと、汁物が用意してある。フタを開けると、汁には縫い針が入っていた。
「うーむ・・・地頭どの、参り申した・・・・・・」
以後、出水の郷士たちは有栄の命に伏するようになったという。



「黄金の鞘」の山田さんでさえ、悪久の下じゃこんなにギスギスしてるんだから、名も無き薩摩隼人なんか
推して知るべきで、徳之島の人たちも、ことさら反抗せざるを得なかったんじゃ・・・




404 人間七七四年 投稿日:2010/04/26(月) 14:05:18 ID:o68/EvpO
沖縄では食べていたそうだから薩摩でもひょっとしたら…>カエル
というか日本書紀に「吉野ではカエルを食べる」という記述があるそうな。




414 人間七七四年 投稿日:2010/04/26(月) 20:04:47 ID:GpPbRiTK
犬や人間の肝を食べていた薩摩でも蛙はゲテモノ扱いなのか。



417 人間七七四年 投稿日:2010/04/26(月) 21:58:37 ID:XstQNCi7
大正時代に日本にもウシガエルが食用として持ち込まれたから
今のジジババ世代からは結構メジャー食材でしょ
うちの親父なんかは良くウシガエルを見つけると
畑仕事放り出して捕まえてた




422 人間七七四年 投稿日:2010/04/26(月) 23:48:49 ID:yYyyFram
古くから日本で食用にされてきたのはアカガエル
明治初期の『西洋料理指南』にもカレーに入れる具のひとつとして書かれている




424 人間七七四年 投稿日:2010/04/27(火) 00:44:46 ID:W6Qns9i9
伊達家の何代目の殿様か判然としないのだが、
河童捕まえたんで塩漬けにしたってさ。

・・・・・・食ったんだろうか?




425 人間七七四年 投稿日:2010/04/27(火) 00:53:29 ID:WVnrsaxW
>>424
伊達政宗「伊達家の主君ともあろうものが、軽々しくゲテモノなぞ喰うか!」




426 人間七七四年 投稿日:2010/04/27(火) 03:33:29 ID:l0wlUSol
吉川元春「ゲテモノ食いなんてする奴の気が知れんな」



428 人間七七四年 投稿日:2010/04/27(火) 04:19:14 ID:jEEQ3aEm
どう頑張っても食えない縫い針で返すのは、どうも風流じゃないな。

じゃあ何なら良いかというと難しいが。
ムカデ、ゴキブリ、ミミズ、ナメクジとかかな・・・




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COMMENT

所謂有名どころじゃなく、こういった少しマイナー系の小話は人間味のあるのが多くて面白いな

| @名無し@ | 2010/04/29 05:16 | URI |















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